勉強は、皆同じ教科書で答えの出ているものを学ぶ。
同じ教科書、同じ先生から学べることはみんな同じ。
まさに同質化
である。
例えば手順が全て決まっていて、ミスなく効率よく結果として形を出すことを求められるような仕事
公務員とか
そういう仕事に就くことだけを目的にするのなら、
その教育環境に深くどっぷりと漬ければいい。
しかし
24時間のうち、その仕事をしているのは就業時間8時間の中のさらにその一部であろう。
それ以外の時間は
教科書通り
であってはつまらない。
少なくとも我が子にはそういう人間ではなく、
彩溢れる会話
周りに及ぼす影響
そういう点で「オリジナル」であって欲しいじゃないか。
じゃあその「オリジナル」はいつどこで養成するのか。
学校の授業時間以外での友達との会話、部活
そういうものもいいね。
でもさ
一番長く濃密なのは何だ?
やはり「家庭」なんだと思う。
少なくとも真島家ではそういうスタンスでやってきた。
あの夫婦ラジオの中に、ゲラおもなし子もいきなり入っても大丈夫。
すぐに会話の趣旨と方向性を理解し、合いの手やらツッコミやら、持論展開までできる。
そうやって家庭内の会話を使って、我が子を「オリジナル」として育ててきた自負がある。
教科書からの学びは大事。
これまでの「過去のオリジナル達」が見つけ、考え、動いてきた証を学ぶわけだから。
その知識は我が子をオリジナルとしてより一層輝かせるための要素であることは間違いない。
ただ、それは「一部」「要素」であることを忘れてはならないんだ。
子育ても終盤に近づくと
「うちの子は勉強こそできないけれど」
という言葉を枕詞のように使う親が増える。
あれは、負け惜しみでも何でもなくて
それ以外の部分で、我が子のオリジナルの部分を親として認識し、「だから大丈夫」って本気で思てるからだよ。
教科書の勉強で言えば、なし子はゲラおの足元にも及ばない。
でも、僕ら夫婦の中ではもう何年も前に「むしろなし子の方が大丈夫」って思てたからね。
最近になってようやく「実はゲラおはもっと大丈夫だった笑」って分かったくらいだし。
男の子はなかなか外での姿は見えないから。
家庭での子育ては何に意識を持っていくべきか。
オリジナルとしての我が子
をいかに育て上げるか
きっと、ここなんだと思う。
さて、今日はプラごみの日だ。
ワン達3匹も我が天使な奥様もスヤスヤと寝ている。
その寝姿をしっかり見て
行ってくる🎵