人って、日々のほぼ全てを「惰性」で生きてる。
朝起きて、トイレに行って。
なんとなーく水飲んで冷蔵庫開けて。
ルーティーン
と言えばかっこいいが、それは極めて「惰性」に近いだろう。
そしてそれ以外に能動的に何かをするとすれば、それは「しないといけない理由」がある時だけだ。
もしくは「したい」という欲。
ここで「我が子の勉強」というものに目を向けよう。
子供にとって勉強が
しないといけない
したい
のどちらかになっているだろうか。
なっていないのである。
それはなぜか。
その必要性や有用性を経験として蓄積してないからである。
しかし
親は違う。
自らの人生を通して、その必要性も有用性も知っているのだから。
だから親は必死で我が子に勉強をさせようとする。
必要性
と
有用性
これを我が子に刷り込みながら。
最初はその対象は「親」だと思うんだ。
子供が何かを頑張ると親が喜ぶ。
子供はそれを見て嬉しくなる。
親のために
親が喜ぶから
ここがスタート。
しかし、そのままで良いわけがないし、
それはいずれ威力が弱くなることを親は知ってる。
だからそれを外に設定する。
受験
試合
チームのレギュラー
などのものに、ね。
このシフトのタイミングや匙加減を間違えるとかなり揉めることになる。
分かるよね?
もう受験やチームみたいなものにシフトさせてるのに「親の満足」がむくむくと顔を出してしまったり。
どう?
心当たりあるよね?