人が人を育てる人を育てる
昨日の僕のメモ書きにそう書いてある。
いろんな塾の先生と話をすると、まずは必ず具体的な教科指導の話になる。
どのテキストがいい、とか
どういう仕組みが良い、とか
そういうことに。
そして具体的な「こういう子」の話になる。
部活が忙しくて塾に来る頻度が低い子、とか
反復の先になかなか定着がない子、とか
何年も前に学んだはずの基礎がない子、とか
じゃあそういう子はどう伸ばすか、みたいな話に。
そうやって、対象の解像度をどんどんくっきりとさせて行くと
必ず出てくるワードがある。
それが「親」「保護者」「親御さん」「家庭」
これらのワードである。
車の整備だと思って欲しいんだ
僕らは一生懸命にエンジンを整える。
オイルを変えたり、いろんな微調整をしたり。
時には一度車から取り出して、分解して組み直す。
一つ一つのパーツを磨いて。
そうしてアクセルを踏み込むと、勇ましいエンジン音が鳴り響く。
でもね
タイヤは交換できないんだ。
溝のない、ツルッツルのタイヤ。
それを変えられるのは家庭だけ。
そこにいる親だけ。
もちろんガソリンの注入も、だ。
そんなイメージ。
この社会はどこにだって「競争」がある。
大きな競争も小さな競争も
長い競争も一瞬の競争もある。
その時の判断でアクセルを踏み込み、ハンドルを切る。
いくらエンジンが良くても、タイヤが滑ってしまうのなら
いろんな場面で競争に負ける。
どんなに最高の1日をスタートさせたくても
家庭内のスケジュール管理がボロボロなら出遅れるだろう。
子供が自分の部屋にスマホを持ち込んでいるのなら
それはもう、完全に睡眠時間を削る。
それは起きている時間の気力と体力を奪う。
エンジンが良くてもガソリンが入っていない状態なんだ。
そうやって、子供というのは携わる周りの人間の全ての手が支えている。
未熟だからこそ子供。
それを育てるのは周りの人間だ。
本来は、動物として親が我が子に生き残る術を教える。
獲物の獲り方とか
危険な場所とか
社会が発達して、親だけでそれは無理になった。
だからこそ「分担」なんだ。
分かるね?
僕らは「塾」という場でそれを担う。
でも、僕らにはできないことがたくさんある。
最初に書いた文言の下に
僕は言葉を付け足していた。
それは
人が人を育てる人を育てる
真島 生徒 親
だ。つまり
真島が生徒を育てる親を育てる
である。
さあ
僕の双肩に何がのっているか。
その自覚はもう十分にある。