僕は国語が得意だ。
一番の得意科目と言ってもいい。
国語は他の科目のように事前準備が要らない。
漢字や文法などはその必要もあるが、
かける時間は他の科目とは比べ物にならないくらい少なくて済む。
漢字の読みなどは文章題を読む中で習得できてしまうし。
ただ目の前の文章を読み、そして聞かれたことに正確に答えれば良いだけだ。
とてもシンプルな科目だ。
だからこそ、その指導の仕方は難しい
と言うよりも、そもそも「指導」を成り立たせることが極めて難しいのだ。
多くの塾の先生、塾長と話をすると
「やはり国語が…」
と聞くことが一番多い。
教材はたくさんあり、
あれがいい
これもいい
という声はたくさん聞く。
もちろん、目を通す。
しかし
どうにも「モヤっ」としたものが拭いきれなかった。
当然、これまでも国語の取り組みに関しては試行錯誤をしてきた。
本格的に生徒達の気合が入る受験期
その前向きな気持ちが大きくなってきてからの国語文章読解。
その前向きな気持ちがないと、生徒達はどうしても本気で文章を読もうとしない。
文を読まずして、読解もクソもない。
読んでないから答えもその糸口も分かるはずもない子達に向けて、
しっかり読んだことを前提として答えまでのルートを教えることの無意味さ
自分が国語が得意だからこそ、
さの無意味さにどうしても気がついてしまっていた。
本文推測は、その無意味さを取り払うのに一定の力を発揮した。
しかし
そのゲーム性が故に、2回目、3回目のインパクトも効能も格段に下がる、という感じがした。
やはり、「指導の核」にはなり得ないと感じた。
たまにスパイス的に楽しむには最高なのだが。
そんなモヤモヤを抱えながら2023年、つまり今年の夏を迎えた。
きっかけは何だったか
もう覚えていないが
「結局のところ、勝つためには自分の武器で勝負するしかない」
という誰かの言語化が僕の脳みそに届いたんだ。
そしてさらに、松江塾の子達が英語が得意になっていく「納豆英文法」もあらためて見つめ直してみたんだ。
なぜ、松江塾の子達は僕の授業を受けるだけで、授業中にほとんど問題演習などしないのに英語が好きに、できるようになるのか、と。
そしたら気づいたんだ。
必要な思考を噛み砕き、とろとろに煮込んで全てを丁寧に僕が言語化してる、ということに。
そうか
これか
これなんだ、と。
目の前の文章
なぜ読まないのか
なぜ理解できるまで深く読まないのか
それがなければ授業が成り立たないじゃないか
そう感じていたその文章の読み方、感じ方こそ
生徒達それぞれが身につけるスキルなんど、と。
そして、それを伝える僕の言葉を届けることが
そっくりそのまま「国語」なんだ、と。
国語は「言葉」を介在させ思考し、解いていく科目である。
つまり
コミュニケーションそのものが科目化したものである。
であるならば
そこはこのブロガー真島の最も得意とする部分ではないか。
そう思って、その授業時間中に「読んで解いて解説」というこれまでの国語指導の常識を全て捨てた。
問題なんて、どうでもいい。
まず、その前段階をしっかりと骨身に染み込ませる授業をすべきだ、と思った。
そういう読み方ができるようになれば、そこは「自学の松江塾」なんだから
あとは勝手に生徒達が解くよ。
うん
ということで
美味しくいただく国語
が爆誕したんだ。
2023年夏
松江塾は大きく前進することになる。