今回のチラシに「松江塾式自学力」と書かせてもらった。
自学というものは、
自分で学ぶ
ことを表す言葉だ。
目の前の学習課題に対し、自ら紐解き、理解をし、解けるようになるまで落とし込む
それを自分の力でやること
これが「自学」である。
誰もが望むこの力
自分に備わることを望み
我が子に備わることを切に願うだろう。
しかし
簡単に思えるからこそ、得ることは難しい。
でも本来、人には「自分でやってみたい」という欲求は必ずあると思わない?
子育てをしたことがある人なら分かると思うけど、
子供がまだ小さい頃って、何でも自分でやってみたがらなかった?
危なっかしくて仕方なかったけど、
あまりにも自分でやりたがるもんだから、はらはらしながら見守った記憶、あるよね?
だから多分、「自分でやる」というのは人の本能なんじゃなかろうか。
と、僕は思う。
なんでそんな本能を持って生まれているのに
勉強において「自分でやる」ということができないんだろーか。
と、僕は考える。
考えた
ずっと考えてきた
でも、なかなか答えは見つからなかった。
なぜって、僕が「塾の先生」だったから。
塾の先生っていうのは、生徒に勉強を教えて学力を伸ばすためにあの手この手を尽くし、その労働対価として費用をいただく。
そういう仕組みで成り立っている存在なんだ。
だから、
生徒のためにあの手この手を尽くす
ということは、疑いようのない大前提、当たり前っていう思い込みがあるんだよね。
動物を見せない動物園
水が一滴も入ってないプール
一駅も進まない電車
そういうものが商売として成り立たないって考えるのと同じで、
生徒のためにあの手この手を使って勉強を教える
ってことをしないと成り立たないって考えるのが普通。
だから当然そうやって松江塾も運営してきたし、
それで学力や合格実績を出すノウハウを模索し、磨き上げてきたんだ。
でも、自分の中ではいつも違和感を感じてたんだ。
塾に依存してしまう生徒の存在
これね、塾の先生にとっては最高に心地の良い達成感しかない状態なんだよ。
塾のおかげで成績が伸びる子
それに感謝する生徒と保護者
広がる評判
塾として、1ミリも疑いようのない成功
そりゃそうだよね?
「あの塾、とにかく熱心に指導してくれて成績伸びるよ!」
なんて口コミも広がるし、それで生徒も増えるんだから。
松江塾も、そこを究極のゴールと設定して頑張りに頑張ったよ。
でもさ
違くない?
最近は、この「自学」という言葉が塾業界でも大きく目立つようになってきたよね。
すると当然、「自学のやり方」とか「自学力の身につけ方」という話になってくるよね。
確かこのブログにも書いたような記憶もあるし。
でも、それもまた違和感。
なんか違うんだよね。
「ほら、こうやって勉強するのが自学だよ。やってごらん。お!良いじゃん!自学できたねー!」
って…
なんか違う。
松江塾がやってることは、そういうことじゃないんだよね。
これからまた何度も何度も言語化していくけど、
松江塾の自学
つまり
松江塾式自学
は、多分少し違うはずなんだ。
でも、その松江塾式自学で
中学部では
学年1位 9名
学年2位 6名
学年3位 5名
高校部では
浦和高校学年6位
川越高校学年9位
川越高校理系学年2位
川越高校文系学年2位
川越高校理系学年9位
栄東東文学年10位
浦和一女学年26位
市立浦和クラス1位
市立浦和クラス6位
川越女子学年12位
星野Ⅲ類学年1位
星野Ⅲ類学年4位
川越東学年19位
今回の中間テスト、中間考査だけの結果だよ?
科目だけで見たら、ここに書いてない子達だって学年1位とか、クラス1位の結果は書ききれないくらい出してるからね?
もうさ、わけ分かんないレベルだよね?
自分でこんなこと言うのもなんだけど、
なんでこんなすごいの?
って、僕自身が驚きまくってる状態だからね。
でも、ここにきっと「答え」があるんだ。
松江塾式自学
というものの。
結果が出ちゃっている時点で、今松江塾がやっていることが「正解」だと言うことは断言できる。
でも、この仕組みを僕自身がまだ言語化やノウハウ化できてないっていうのが素直な現状。
でも、やれていることには理由があり、
やれるようになるための方法もあるはずだ。
というか、当たり前にやってきてしまっているんだよね。
松江塾式自学
これをこれからしっかりと研究し、ノウハウ化していくことにする。