これはもう、父の命がそう長くないと分かってから聞いた話である。
旧真島家は各自が自立、独立していてお互いにあまり干渉しない。
僕自身、わりと幼少期から「自分の人生でしょ」と言われて育ったことからもそれは分かるだろう。
だから父がどういう一生を歩んだのかは、何となく断片的にしか聞くことはなかったかな。
山形の鶴岡市、わりと裕福な家に生まれたと聞いた。
しかし昭和初期
長男が大事にされ、次男以下は「自分で生きろ」的な空気だったようで、
高校も大学も自分で学費を出して行ったとか。
いろいろアルバイトを掛け持ちしたりして。
鶴岡南高校
そして
中央大学法学部
当時としてはかなり頑張ったのだと思う。
そして司法試験を目指して勉強している時に当時講談社に就職していた母と出会う。
なかなかに熱い恋愛だったようで、司法試験という不安定な道ではなく安定した職について結婚を!となったようだ。
そしてその人生の選択が「自衛隊」というハードな道となった。
なぜ一般企業でなかったのかは謎。
航空自衛隊に入隊後、幹部候補生として数々の試験を受かりまくって地位を上げていったようだ。
これに関しては最後の入院中も朦朧としながら「頑張ったよなぁ」と言っていたから、記憶にもかなり残っているようだ。
500人の受験者のうち、3人しか受からなかった、とか。
それがどのくらいの難易度で、どのような試験かは分からないが。
ただ母が言うには、「同僚の人は勉強の邪魔になると言われ、幼い子をママが背負って外を散歩。その間に旦那は家で試験勉強してたみたい。でもマジコ(母が呼ぶ父の愛称)が勉強している姿は一度も家で見たことはなく、家族と楽しく過ごしていた)と。
確かに僕も記憶の中にそういう姿は見たことがない。
ただ、やはり自衛隊という組織は防衛大学卒の人が強いらしく、一般大学卒の父は上に行けば行くほど大変だったそうだ。
僕の中で最も記憶に残っているのは、アメリカ出張の時かな。
当時はクリントン大統領。
父はアメリカ国防省でクリントン大統領と同じテーブルについて会議やら交渉やら?に参加したという話。
ただ当時は「絶対に外でこの話はするなよ」と口止めされたのを覚えている。
その後はさらに上に行く道か、幹部候補性を育成する道かを選ぶ道かを選ぶときがあったようで
そこは育成の道を選び、その教育機関の校長として後輩の指導にあたったようだ。
このあたり、僕の塾講師という道にも何か影響をもたらす遺伝子の存在を感じる笑
そして退職。
すぐに昔からの夢だった?居酒屋を熊谷にオープン。
ここは母が相続した土地があり、熊谷駅から徒歩1分の飲屋街入り口付近という強烈な立地に恵まれ
80歳くらいまで趣味と実益をかねて楽しくやっていたようだ。
僕も大学生の頃手伝いに行ったが、奥の座敷までパンパンに埋まるくらいの繁盛店だった。
そしてそんな晩年は海外旅行も行きまくり。
赤くピン留めしたところが訪れた国。
ヨーロッパが中心の地図がいかにも父らしい。
まあ、ざっくりと書いてきた父の一生。
83年という、なかなかに長い一生。
その時々で苦労もあったとは思うが、まあそれほど大きな落ち込みもなく
生涯の伴侶にも子供に恵まれ、孫も4人。
全員の成人も見届け、幸せな一生だったのではないか。
「頑張ったよなぁ」
と、自分の人生を振り返り言える人生は同じ男、同じ父としては羨ましいとさえ言える。
さあ、今日は通夜だ。
残された親族として、静かに送り出してあげようと思う。