数字
四則計算
直線と曲線で囲まれた図形
規則性のある数字達の関係
限られた知識や法則を組み合わせることで
「これ、解ける?」
というお題に取り組む
これが算数、数学というものだ。
考えるためのパーツが具体的であり、ルールが明確、さらにその数が少ない。
だからこそ、それらを使って「思考」ができる。
まさにその通り。
本来、人は「思考」が好きだ。
脳みその特性上、絶対に好きなんだ。
頭の良い人はどちらかというと算数や数学にハマる。
考えることの快楽に引きずられていくから。
考えることの快楽
解けた時の快楽
だからこそ、思考力を磨くには算数が良い、とされるのだろう。
では、文系科目はどうなのか。
特に算数好きの男の子で国語が苦手、という子が多いように感じるのだが
おそらくその理由は、上に書いてきたことと繋がるのではないだろうか。
考えるためのパーツが具体的
国語はこれが「語彙」に相当するのだろうが、ほぼ無限に広がってしまう。
ルールが明確
文法というものはあるが、日本語の場合は曖昧な部分が多すぎる。
私は納豆を食べる
と
納豆を私は食べる
とでは、頭の中のイメージが変わってしまう。
その数が少ない
これはもう言うまでもなく真逆
膨大な数だ。
そして国語はその数の多さで思考の幅も深さも変わるからね。
算数にハマればハマるほど、脳みそは
具体的な対象物
ルールが明確
数が少ない
というものを好み、そうでないものを嫌うんだろう。
だからますます国語嫌いになっていく。
読解においてこの点を解消しようと試みている指導者はたくさんいる。
ルールが明確
ここに焦点を当てて、ね。
しかしその類のものを見て、いつも思うことがあるんだ。
確かにそのルール化、という点においては素晴らしい。
だがしかし、
それは文章に何が書いてあるか分かってからの話よね?
それが「対比」なのか「具体例」なのか、
それって、文に書いてあることを理解して、抽象化できてからのことだからね。
本当に国語ができない子達は、その手前で転ぶ。
つまり
文が理解できないだよ。
「この文とこの文は同じことを言ってるよね、筆者の意見が言い換えられて反復してるから、筆者の主張は見えるよね?」
と言われても、それが本当にそうなのかが読めないんだ。
理由はシンプル
言葉が足りない
これね。
考えるためのパーツが頭にない。
だから考えられなくて当たり前なんだ。
三語短文と納豆英文法は
国語と英語を「思考科目」にすることができる仕組みである。
三語短文は言うまでもなく語彙増強のため。
これには地道な積み重ねしかない。
コツコツ
コツコツ
小5などが顕著だが、この5ヶ月続けてきた三語短文で、生徒達の心や内面の発達が
これまでの小学生高学年のそれと明らかに速度が違うのを感じるから。
これは僕よりも保護者の方が感じているのではなかろうか。
明らかに思考の成熟度が速い、と。
納豆英文法においてもそうだ。
ルールが明確に分かる
ということを拠り所にして、「ちょっと考えてみる」ということができるようになってるからね。
普通に英語を学ぶと、
自分が覚えたフレーズと同じだから解ける
これが限界なんだよね。
国語はセンス
英語は暗記
算数は思考
そう考えられてきた科目のイメージを
きっとこれから変えていくことができると思っている。
教育は
奥が深い。
そして、ゴールなんてないんだ。
だから面白い。