塾講師は「噺家(はなしか)」に似ていると僕は思っている。
人に「言葉」で情報を伝え、そこに「理解」「納得」を生み出し、さらに「感動」まで沸き立たせるように話す。
それを生業としているからだ。
そこで意識したいのが
BGMになってはダメ
ということ。
BGMは、何か作業をするときに周りに流れていると
なんとも心地よい気分になるような
それでいて自分の意識を持っていかれ過ぎない、程よい音楽。
もし塾講師としての授業、つまり話がBGMになってしまったら
伝えたい大事な内容は生徒の頭に入っていかない。
だから、その生徒にとって目も耳も離せない「主旋律」のようなものにするよう努めないといけない。
まず「こっちを見なさい」と。
こればかりは内容以前の問題だ。
よほどに衝撃的な内容であればBGMから主旋律へと
聞く側か勝手に変えてくれるが
勉強の内容だと、なかなかそれは難しい。
まず「こっちを見ろ」ということは繰り返し繰り返し伝え
授業には不可欠な「所作」として刷り込む。
この段階こそ、「最も大事」であることは言うまでもない。
授業のために仕込んだ話、構成、言葉
それをBGMにされてたまるか!という気概。
塾講師には最も大事な部分だ。
だから話し始める時に生徒の方を見る。
よーく見る。
僕が生徒達の目を通して見るのは「体調」や「疲労度」、「精神的状態」などなど。
その総合体としてクラスの雰囲気を判断し
「雑談」を始める。
こっちを見る
ということを整えながら。
僕の授業動画を見た人なら分かると思うが
僕の雑談はかなーり長い。
というか、めちゃくちゃ長い笑
あの長さには後付けかもしれないが理由がある。
まず、雑談を聞くという行為を通して
「真島の話を聞くときの所作」を叩き込む。
雑談なのに「目で聞く」ということを嫌というほど強制する。
そして雑談ならではだが、「真島の話はやたらと頭にスッと入ってくる」という流れを作る。
例えばフラッと入ったラーメン屋で、注文をしてスマホを見る。
するとどこからか聞いたことのある声が聞こえてくる。
店内に置かれたテレビからだ。
「明石家さんまか…」
と思いながらスマホを見る。
しかしそこに「ヒャーッハッ!!」と、さんま独特の笑い声と周りの笑い声が流れてくると
思わずスマホからテレビへと目が移ってしまう。
あの感覚に近いだろうか。
「その声を聞くとつい見てしまう」
これを作ることが、塾講師の生命線ではないか。
そしてその次に僕が心がけるのが
話すスピード
話す文字数と「間(ま)」
である。
話すスピードに関しては、後で動画を1.5倍速にしても普通に理解できるようなスピード。
別にそのことだけを意識しているわけではないが
ドライバーでネジを回す時をイメージ。
あの時にものすごい速さで回したら、ねじ山の上でドライバーが空転するの、わかるよね?
ねじ山に刻まれた「➕」にしっかりとドライバーを合わせ、ぐっと力を入れてしっかりゆっくり回す。
あのイメージで話す速度。
これを心がける。
んで次は話す文字数だ。
これに関してはよく分からないかもしれない。
でも、今まさにあなたがこのブログを読んでいて気づくと思うが、僕はこのブログを書く時に行間が大きく、そしてその行間を作る前の一文の長さも実はある一定の文字数になっていることに気づいただろうか。これがまさに僕が授業で話すときの「文字数」の感覚にかなり近い。こうして今行間を意識せずに詰め詰めで文を書くと、スマホ画面を見た時に「パッ!」と情報が頭に入ってこないでしょ?日常的に本を読む人でも、スマホの画面はじーっと見ていると疲れない?何かやりながらチラチラ見ることも多いだろうし。
だから僕は
「パッ」と見た時に情報が頭に入りやすい長さ
それを、意識してこうやって文字数を決めてるんだよね。
ほら、
どう?
こうやってスカスカしてた方が、頭に入るでしょ?
人が人の話を言葉で聞く時
聞きながら理解をしているわけで
その内容的にちょっと負荷が大きいものなら特に文字数は少なめに。
また話している時に僕は生徒を見ながら話すわけで
文字数が多すぎて脳みそが「フワッ」と限界に近いような子が増えてきたら
文字数を減らして速度を遅くする。
もしくは、一旦全く関係ない話に変えて
みんなのねじ山の「➕」を整える。
さっきの「フワッ」は、ねじ山の「➕」の角が取れて、ドライバーが引っ掛からなくなってる状態に近いかな。
本当のネジは一旦「➕」が崩れたら戻らないけど
生徒の「聞く力」はこちらのやり方次第でいくらでも修正できるから。
そしてその文字数とも大きく関係しているのが「間(ま)」である。
文字数を一定に調節するということは、
そこで言葉を止めるわけで、自然とそこに「間」が発生する。
しかしこの「間」は単なる「言葉の余白」ではない。
人の話を能動的に聞く場合、特にもっと聞きたいと前のめりで聞いている場合には
そこに「間」は要らない!と感じることも多いはずだ。
しかし、あえてそこに「間」を入れる
「聞いてよこの前ね、駅前歩いてたらさ」
と、ここで若干の「間」を入れる。
この段階で聞き手の頭の中に「駅前の様子」がイメージされたことを目で確認。
その駅前には話し手である自分もセットされ、
何か相手に伝えたいほどのインパクトのある出来事があったんだと期待させる。
これ、「思考そのもの」だよね?
そうだ
これなんだよ
「間」には、聞き手に「想像」「思考」をさせることができるんだ。
「前からヤバい人が歩いてきたのよ。マジでヤバかった。20歳前後の女の子でね」
と、ここでも若干の間。
ヤバい人=おじさん
のような共通認識を裏切るような「20歳前後の女の子」というワード
からの「間」。
ここに来ると「想像」「思考」に加えて「期待」も生まれてくる。
「髪が頭の真ん中から右だけ全部ピンクでね」
なんだ…ビジュアルのヤバさかよ
と、若干期待を裏切るような展開の後、
「なんでか知らんけど俺の方見て手を伸ばしてきたのよ」
と、ここでまた「期待」に引き戻す。
ここの「間」はこれまでよりも長く。
すると聞き手の中に「あれ」が生まれてくる。
何だと思う?
「あれ」だよ、「あれ」
笑
今まさにあなたが感じている感覚と同じ「あれ」
それは
渇望
喉が渇いた時に水を欲するように望むこと。
でしょ?
「んでそのまま俺の肩に手を当てて、「お前も半分ピンク似合うからやってみ?」って言ってきたんだよ。超やばくない?マジで焦って何も言えなかったよね。」
と、最後は渇望してるからこその文字数多めで話を終える。
これをね、
「聞いてよこの前ね、駅前歩いてたらさ前からヤバい人が歩いてきたのよ。マジでヤバかった。20歳前後の女の子でね、髪が頭の真ん中から右だけ全部ピンクでね、なんでか知らんけど俺の方見て手を伸ばしてきたのよ。んでそのまま俺の肩に手を当てて、「お前も半分ピンク似合うからやってみ?」って言ってきたんだよ。超やばくない?マジで焦って何も言えなかったよね。」
と、間も作らずに自分勝手なスピードで話したらどう?
まあ、この程度の例文なら頭に入ってくる可能性も高いけど
これが「雑談」パートじゃなくて「授業」の部分ならどう?
多分、頭に入ってこないと思うんだ。
あれー
なんだが3000文字も書いてしまった!
さすがにこれだけ長いと、その時点で心地よくないか笑
ということでこのあたりにしておこうかなー。