これまた国文法の話。
中学生の躓きポイントとしてよく質問が来るのが
文節同士の補助の関係
だね。
まずこれは「文節分け」の段階でモヤッと登場するんだ。
文を文節に分けることは、小学生のころにゆるゆると始まる。
あまり気づいている人は多くないが
実は小1の国語の教科書は
書いてある文がほとんど文節に分かれ、文節ごとに離れて書かれてるんだよね。
ほら、ね?
低学年はまだ語彙も少ないから、こうやって文節ごとに分けないと読みにくいからだと思うんだ。
てか、そもそも文節って?
説明でよく見るのは
文節とは、日本語の文法において、言葉を細かく区切った際に不自然にならない最小の単位。
ふむぅ
なんか…
我が子の脳みそには染み込まなそうな予感…
するよね笑
分かるぅー!
超分かるっ!
まずね
文節
という漢字2文字がいきなり馴染みがなさすぎるんだよねぇ。
文
ならみんな分かる。
でも
文節
ってなると、ものすごーく「初めまして」感が出ちゃう。
そしたらね
そうだなぁ…
何で説明してあげたらいいかなぁ
こういう時は、なるべく我が子が知ってる言葉に引きずり込んで
「ほら、これと同じことよ」
ってところまで連れて行ってあげるのが一番だよねぇ。
うーん
関節
なら説明しやすいかな?
腕とか足とか使って説明できるよね。
まっすぐ腕を伸ばして、それをパキッてひじのところから曲げるんだ。
そして
「ほら、ここで曲がるよね?この関節の部分で腕って上と下に分かれるでしょ?これが「節」ってこと。曲げても腕は腕って分かるよね?文も同じ。どこかでパキッて折り曲げても意味が分かるよってところがあるんだよ。例えばね…」
お母さんが納豆を食べた。
この文を、まるで腕を曲げるようにパキッと折る。
お母さんが
腕
を
食べた
ほら、どう?
腕を曲げた時と同じ。
それぞれの折り曲げた後の塊は意味が分かるよね?
もしこれを
お母
さ
ん
が
納豆を食
べ
た
というふうに折り曲げたら?
べた
ってなんやねん!!!
ってことになるでしょ。
逆に
お母さんが
納
豆
を
食
べ
た
これでも良さそうな感じかするけど、まだ細かく折れそうな気がするでしょ?
こうやって、なるべく細かくパキパキと文を分けていく感覚。
これが「文節分け」「文節切り」ってやつね。
僕の授業では「一文節一自立語」というフレーズを何度も何度も連呼する。
パキッて折り曲げた部分に、
それだけで意味が分かる言葉、つまり自立語がひとつだけ入ってますよ!
という原則。
さっきの
お母さんが
納
豆
を
食
べ
た
の折り曲げた部分。
「納豆」と「食べた」
というのはそれぞれそれだけで意味が分かるよね?
だからまだ折れるってこと。
それが
一文節一自立語
ってことね。
こうやって「もっと折れるんじゃね?」と思いながら文をモミモミしていくと
「おお!まだ折れるじゃん!」
というところが見つかるからね。
これがまた楽しいんだわー。
じゃあ、練習してみようかね。
頭の中で文をパキパキと折っていこう。
「紅葉が綺麗だ。だから冬はもうそこまで来ている。」
小学生の時はさ、「ね」を入れて読むと文節に分けられるって習うのが普通。
でもね、これは極めて「感覚的」だし、人によって切り方に差が出ちゃうんだ。
紅葉がね、綺麗だね。だからね、冬はね、もうそこまでね、来ているね。
とか
紅葉がね、綺麗だね。だからね、冬はね、もうね、そこまでね、来ているね。
とかね。
いずれにしても、最後の部分
来ている
ここを分けられないかが多い多い多い。
これ、話し言葉で「来てる」なんて使うから、もう一つの塊(かたまり)に見えちゃうんだろうね。
んで、この部分をしっかり切れないことが題名にも書いた「補助の関係」を分かりにくくさせてるんだよね。
続く