ふむ
AI教育
膨大なデータと高速学習により、我が子にぴったり(あえて最適とは言われない)の教材や問題、ルートが提示される。
無駄がない
間違いがない
つまり
「それのどこが悪いの?」
と、誰しもが思う流れである。
しかし
なぜかどこか、モヤっとするものもある。
それを考えてみた。
AI教育というものを
盲信していいのか。
いや、盲信なんて言うとマイナスイメージを刷り込んでしまうから
活用してもいいのか、どうなのか
である。
僕はここで、真っ先にAI教育が我が子に対して与えるものと奪うものについて書くことにする。
まず、与えてくれるものは、
無駄や重複のない必要十分な知識の構築
である。
一枚のプリントをやる。
正解と不正解がある。
その不正解が、単なるミスなのか、それとも知識の欠落なのか
それも判断し、それを修正するための問題が選ばれ、提示される。
反復すべき深い知識は繰り返し盛り込まれる。
これにより、隙間のない土台
これにより、それらを使った応用力
まできっちりと作り上げられていく。
うむ
これは皮肉でもなく、確かに素晴らしいことである。
学ぶ子供としては、
少しずつ自分の知識が増え、輪郭もクッキリしていく
ステップを踏むという実感もある。
そういう仕組みを与える親としても
子供にとって何が最適か、迷う必要もないしその時間も必要なくなる。
まさに、win-winの最適状態なのである。
この仕組み、世の中をより効率的に、という観点から考えると
非の打ち所がない、ものである。
特に「仕事」「行政」「医療」「法務」の世界においてはなくてはならないものであろう。
しかし
教育の場合、これらの「与えてくれるもの」の対局に
奪うもの
があると思うのだ。
それは、
試行錯誤する力
試行錯誤に耐える胆力
失敗を学びに変える力
である。
なんとも皮肉に思うのだが
AIによって無駄なく効率よく提示されたものをこなして上げた学力
それを測る「入試問題」は、まさに試行錯誤の力を試されるものなのである。
どの知識とどの知識を組み合わせて考えるべきか
まず一歩目、二歩目を踏み出してみて
この先に解はなさそうだ、と判断。
だからそれに近い他の組み合わせでまた一歩、二歩
どうやらこれで行けそうだ、と判断。
その繰り返し。
そしてようやく「これだろうな」と確信できる答えに辿り着く。
これは、まさに人間の行動を見て、分析して、次の道を提示した「AIが人間に対して行っていた試行錯誤」そのものなのである。
入試問題に限らず、人は毎日膨大な量の決断をしている。
AIの普及は、人間の膨大な判断による「決断疲れ」によるパフォーマンス低下を回避するため
なのだそうだ。
これは確かに一理ある。
僕が毎日、いちいち服を選ばないように同じ色の服を着ているの同じ理屈だろうか。
そうやって、「要らぬ試行錯誤」をAIが担うということ
これがそっくりそのまま教育に持ち込まれるから
僕らは本能的にモヤっとするのである。
今はAI黎明期から発展期にある。
だから人は「AIは補助ツール」という感覚を持っている。
しかしこれが「AI成熟期」になると何が起きるか。
人の多くは試行錯誤と判断の大部分をAIに任せることになる。
まさに試行錯誤も決断もできない人間が大量発生だ。
「AIに聞けば?」
「AIはどう判断してるの?」
これが当たり前の思考になる。
カーナビ頼りで目的地に行くと、道を全く覚えないのと同じ。
街並みを見て、風景を見て「ここを右だったかな?確か…」と考えることがゼロになる。
見るのは風景ではなく、ナビ画面。
それと同じだ。
さてさて
そんな世の中に我が子らは生きていくわけだが
我が子が「AI服従軍団」の一員として生きた方が得で幸せか
それとも
「まあ、AIはそうだろうけどね」と、一旦自分の頭と対話できる生き方の方が得で幸せか
まあ、正解は分からんよ。
ただこうして言語化する力って
AI服従軍団には不可能ってことだけは言っておくよ。
試しにこのブログの題名でAIにブログ書いてもらおうか?
笑
クソつまんない文になることは言うまでもないだろう。