国語
特に文章題を苦手とする子は多い。
「国語の文章題」
と言語化すると、例えば「割り算が苦手」なんていうことと同列に考えたくなるが
ちょっと違うと思うんだ。
人は「言葉」で情報をやり取りしている。
何かを伝えたくて言葉にし
その言葉を受け取って理解をする。
今ここまで読んできてもらって、
僕が伝えたいことが頭の中に入ってきていると思うのだが
国語の文章題というのは、まさに今あなたが体感している流れそのものに関することなのである。
言葉に乗っている意味
言葉が繋がって紡ぎ出す意味
それがどれだけの精度で頭の中に入っていくか。
そこに映像はあるか
そこに音はあるか
そこに具体物はあるか
そこに自分の経験が乗っているか
そうやって、どれだけ輪郭がはっきりし、どれだけ厚みや深みを持って脳内に受け取った情報が広がるか
これが「読解力」の正体なのである。
年々感じ方が強くなってきたと自覚しているが
「子供たちは想像以上に読めていない」
という現実。
言葉を受け取れない
受け取った言葉を脳内で咀嚼できない
つまり
理解できない
本文も設問も、である。
読んで解いて答えや解説を確認
といった、当たり前のサイクルのスタート「読む」ということができていない。
これ、理由は簡単である。
今の時代、これからの時代
子供達は「読む」ことよりも「見る」ことのほうが圧倒的に多いからである。
かつてテレビは家のリビングに一台しかなかった。
「チャンネル権」なんていう言葉、今では死語なのではないか?
子供達も幼い頃からその環境に慣れてきた。
読む
見る
どちらが多いか。
文字を見て、脳内で各自で映像化
という作業経験を多く積むことなく、ダイレクトに映像が脳内に入る。
見たものを見たまま受け入れる流れ。
これ、文字でも同じことが起きてしまっている。
つまり
字面だげ「見る」という事態。
中3で国語精読の授業をすると、生徒達は猛烈なスピードでメモを取り出す。
ちょっとそちらに意識を向けると、どうやら僕が言葉の意味を噛み砕いて説明している時に手の動きが激しくなる。
え?ここでメモるか?
と感じるレベルの言葉でも、だ。
精読授業を重ねていくと、文に書いてあることの意味をクッキリ知ることに快感を覚えるようになってくる。
今まで漢字とひらがなの羅列でしかなかった視覚世界
それがその向こうの意味世界へと進んでいくからである。
先日も書いた「悲しいくらい大きい空」というフレーズ。
当然に「悲しい」「くらい」「大きい」「空」という言葉自体はみんな知っている。
しかし
悲しいくらい大きい空
とは何なのか
なぜその表現なのか
その表現から何を感じるべきなのか
その感じ方を僕が言語化する。
僕は授業だけでなく、ブログを通しても日々言語化と共に生きている。
おそらく、僕の言語化を「気持ち良い」「好き」と思ってくれている方々が多いからこそこのブログは生き残っているのだろう。
だから自信を持って生徒達に「言語化」を体感させていく。
夏期講習が始まって3日経過した。
中3の国語は4回ほど授業があったが
まだ北海道の入試問題をやっている。
小説は2回の授業で終わり、
論説文はまだ途中だ。
それくらいのペースで、大人が大人のために書いた本気の文章をクッタクタに煮込むように精読し、言語化し、理解するプロセスを一緒に体感。
精読の夏
である。
ちなみにこの僕の精読授業は、どの学年でも可能なわけじゃない。
「人の話を目で聞く」
ということが何も意識せずにできるようにならないと
そもそも僕の言語化が届かないから。
そうだな…
小6
がギリかな。
少なくとも「松江塾3年目」くらいの歴が必要かも。