昨日の夜中、テクテクと家まで歩く中で
「時間があるからちょっと大きなテーマを言語化してみるか」
という感覚で「子育てとは」について考え始めた。
僕は目の前のことにすぐ思考が向き、言語化してしまう。
思考は言語で行うから当たり前だが。
しかし歩いているときは目の前には「道」しかない。
よく知った道を歩くときはその道を見ても思考は動かない。
今どの辺りで、半分くらい来たかな、程度である。
だから数十分間思考が邪魔されないときは
少し大きなテーマを携えて脳みそと対話しながら時間を過ごすことにしているわけだ。
さて
僕ら親は一体何のために「子育て」をしているのだろうか。
例えば「蜂」のように、いずれ自分たちの仲間となり、労働力になり、兵力にもなるように育てているわけでもない。
子供達は確実に大人になり、社会に出て、家族を持ち、自分の元を「去って」いくのだから。
考えてみたら奇妙なことである。
自分の元から去っていく存在をせっせと育てているのだから。
せっかく産んだ可愛い我が子。
ずっと手元に置いておきたいのなら、
世に「教育」と言われているようなことを一切しなければよいのだ。
学もなく
体力もなく
行動力も意欲もなく
当然に仕事もなく
そうすれば一生可愛い我が子は自分のところにいるはずである。
しかし
僕らはそういう子育てを「失敗」と認識する。
元気に我が手元から巣立つよう、毎日せっせと子供の尻を引っ叩く。
「じゃーねー!」
と言って飛び立つその日まで。
親のことなど気にもせず、前と上を見て飛び立つその姿を見て
僕ら親は「満足」を得るのか。
多分、そうじゃない。
それはどう考えても「寂しい」はずなのだ。
これまで当たり前に家にいた存在が物理的に離れるわけで。
寂しいに決まってるじゃないか。
なし子が運転免許合宿に行って10日。
最初こそ写真や動画を送ってきていたが、ここ数日はそれもない。
子供にとって親なんてものはその程度の存在なのである。
そう考えると、「子育てのゴール」は本当のゴールでも何でもないってことが見えてくる。
到達したいのに、到達したくない。
終わりたいのに、終わってほしくない。
そう考えるとね
子育ての本当のゴール、つまり「達成感」はどこにあるのかが見えてくる。
それは
「子供が目の前にある今この瞬間」
なのではないか?
今、目の前に子供がいるということ。
手を伸ばせば触れられる今という時間
今
今
今
それこそ僕ら親は両手を上げて喜ぶべき「子育てのゴール」の真っ只中にいるってことなのではないか?
それを、
やれ受験だ
やれ試合だ
やれ就職だ
なんていう「世の中の作られた節目」に踊らされて
「そこまで頑張れ」
なんて言って、その「作られたゴール」に目を向かせすぎて
「今この瞬間の目の前の我が子」
を見ていないのではないか?
子育てのゴールは今目の前にあるのに。
僕は親は、毎日子育てのゴールの真っ只中にいる。
子育てのゴールは毎日、今この瞬間にある。
子供が目の前にいる限り。
だから子供といる「今」この瞬間をもっと噛み締めよう。
それ、ゴールですよ?
って。
人間社会、生活、ルールの中で作りあげられた何かしらの「ゴール」は、実は二の次三の次。
まず今、目の前の存在と時間を大切に。
そういう心持ちが反抗期を和らげ、結果的にいろんなことが上手く回っていくことに繋がるのでは?
と僕は思う。
なんてことを考えながら昨日はテクテクと歩いた。