ある程度の学年になると
国語という科目は「文章読解」になる。
つまり
文章を読み、問題を解く。
この一連の流れが集められ、問題集が作られる。
子供は其の問題集を渡され
「はい、コツコツ解いてね」
と言われる。
うん
嫌いになるよね笑
だってさ、そもそもその文章って
一人の筆者が自分の思いや想像したストーリーを
渾身の努力で書き上げた「作品」だよね。
しかも、その筆者は大人…
大人の渾身の言語化を
その半分の半分しか生きてない子供が受け止め、理解し、
さらに問題にまで答えないといけないわけで
そのストレスたるや…
これは、相当な「大前提」がないと
まず読むことすらストレス、デカすぎない?
だから子供はそのストレスを軽減するように立ち向かう。
つまり
文字面だけを「見る」んだ。
朝礼の校長先生のお話と同じように。
…
……
解けるわけがない。
じゃあ、その「大前提」って何だ?
その大人の話が楽しいって思うこと
だよね。
校長先生の話が
クッソ面白かったら?
もう整列なんてしてられないほど笑う子供達
中にはしゃがみ込んで足をバタバタさせる子もいたり。
真面目な話と緩急をつけて…
そんな話をしてくれる校長先生なんて
そりゃみんな話聞くのが楽しみになるよね?
美味しくいただく国語
っていうのはね
ただ僕がエンタメ的に面白く戯けてるわけじゃぁない。
それじゃ高校入試のジェンダー論や吉日と悪日について満点取れるほどに読み込めはしない。
そういうエンタメ的なところは、
ぐわっ!
と生徒達が内容に親近感と興味を感じるための「前菜」みたいなものだ。
子供に限らず、人は楽しくないものには前向きにはならない。
だよね?
だって、楽しいものはこの世に溢れてるわけだから。
僕ら塾の先生は
その「世に溢れてる楽しいもの」に、自分が教えてる科目を並ばせる努力が必要なんだよ。
「嫌だけど歯を食いしばってやれ」
と言い、強制するのはある程度可能だ。
でも
その先に「自分でやる」なんて未来はあるのか。
ないんだよ。
高校生になって、多くの子達が自ら勉強をしなくなる。
人を能動的な行動に駆り立てる要素は二つ。
①注いだ労力を遥かに超える報酬がある時
②取り組むこと自体に楽しさを感じる時
だと思わない?
多くの子が国語の文章題を嫌う理由
この二つを読むと、なんか分かるよね…
そこの硬い岩盤をぶち破る
それが
美味しくいただく国語
なのである。
小3か約90分間、集中力を切らすことなく一つの文章題と向き合う授業
見たい?
どーぞどーぞ。
あげます。
majimania55@i.Softbank.jp
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この授業を通して生徒達が感じること
それは
「この文章には何か楽しくなることが書いてあるはず!」
という期待感だよね。
そういう経験をたくさん積めば、必ずそうなる🎵