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川越にある松江塾!代表真島による何でもブログ!

「親のコミュ力」こそ子供を賢くする最高の教材

 

賢い子って、どんな子だろう。

 

ちょっとイメージしてほしい。

 

 

 

 

たくさんものを知っている子

 

好奇心旺盛ですぐ調べたがる子

 

質問にすぐ答える子、答えようとする子

 

じっくりと観察する子

 

物事の理解や飲み込みが速い子

 

記憶が長持ちする子

 

知識を組み合わせて言葉にできる子

 

 

 

 

おそらくこんなような項目が列挙され

 

 

その中の複数個を兼ね揃えて持っている子を

 

 

人は「あの子は賢い」と評するのではないだろうか。

 

ではその「賢さ」は、いったいいつどのようにして子供の中に「核」として形成されていくのだろうか。

 

当然、生まれた時はその賢さなんて全員が「ゼロ」だ。

 

その「ゼロ」「空っぽ」のところに、生まれ出でた瞬間から「賢さの種」が注入されていくわけだ。

 

 

いろんな「刺激」を通して子供の脳みそに、ね。

 

 

動くもの

 

触れるもの

 

 

 

見たり聞いたり触れたり感じたりしながら。

 

 

 

最初は言語を伴わない本能的な「感覚」なんだろう。

 

 

それらに反応しながら刺激を経験として蓄積していき

 

 

好き

嫌い

 

 

なんていう感情とセットになって蓄積される。

 

 

 

そしてそこにいよいよ「言語」が乗ってくる。

 

 

今まで視界のどこにでも登場して、自分ばかりを見ているこの動くもの

 

いつも自分を触り、抱きしめ、抱き上げてくれて

 

それでなんだかとても落ち着く気持ちになるこの物体、存在

 

それが「ママ」というものだと知る

 

 

その存在はやたらと「ママ」と口にする

 

 

だから自然と「ママ」と覚え、同じように言ってみたくなる

 

 

息を吸い、よく分からないけど聞いた音を頭の中で再現しようとする

 

 

そうすると、口から自然と何か音が出る

 

 

 

「マ…マ…」

 

 

と。

 

 

 

そしたらどうだ

 

 

 

そのいつも自分の近くにいる存在が

 

 

これまで聞いたことのないような声で何か言ってる

 

 

 

そして思い切り自分を抱き上げ、顔がくしゃくしゃになってるじゃないか

 

 

 

それがなんだかとてもいい気分なので

 

 

もう一度言ってみる

 

 

 

「マーマー」

 

 

と。

 

 

 

するとその存在はもっと顔をくしゃくしゃにして

 

 

「そう、ママ!!!」

 

 

なんて、自分と同じことを言うじゃない。

 

 

 

「マーマー!」

 

「うん!ママだよ!ママ!!」

 

「笑マーマー!!」

 

「うんうん、そう!ママ!!」

 

 

なんだかとても面白い気分だ。

 

ああ、そうか

 

 

この存在は「ママ」なんだ

 

 

 

 

こうやって、子供はその感覚に言語が繋がっていく。

 

 

 

この一連の流れの中で、いったいどれくらい子供の脳に刺激が加わるだろう

 

 

きっと、想像もできないくらいの刺激ではないか?

 

 

 

夜になり、「ママ」なる存在よりもゴチゴチして大きい存在に「パーパー」なんて言った日には

 

 

「ママ」なる存在と多分「パパ」だろう存在が

 

2人して自分の周りをぐるぐる回りながら

 

顔をくしゃくしゃにして踊る?跳ねる?

 

 

そんな刺激を受けながら、子供はどんどん「事象」と「言語」を繋げていく。

 

 

一単語

 

から

 

二単語

 

二語分

 

三語文

 

 

思ったことがどんどん言語として。

 

 

 

 

こうやって、子供は「感覚」と「言語」を繋げていき

 

 

それを「思考」として人間にとって一番大事なスキルを身につけるんだと思う。

 

 

 

「あれ?ママがいない。どこにいるんだろう。読んでみようかな…。マーマー!」

 

 

実際、口から出た言葉は最後の「マーマー」だけである。

 

 

しかしその前の部分は思考として必ず子供の中にあったはずだ。

 

 

 

それに対して無言で姿を現す「ママ」。

 

 

それに対して「何?呼んだ?あー、ごめんね。寂しかったよね。ちょっとお洗濯してたんだー。お洗濯。」と、子供の思考を後追いし、言語化しながら姿を現す「ママ」

 

どっちの「ママ」が子供を賢さに近づけていくだろう。

 

 

 

子供の「言語化」は、必ずその前に何かしらの「思考」がある。

 

 

思考なき言語化なんてものはない。

 

 

子供が「ねぇ」と呼びかけてきた時

 

その前にあったであろう「思考」はなんなのか

 

 

それをしっかり想像しながら「何?」と答えているだろうか。

 

 

そしてそこからの会話のキャッチボール

 

 

子供の思考をしっかりと「ルート」として捉え

 

 

何をどう考えてこの言語化なのか

 

 

それに寄り添うように受け答え、どんどんと「思考の道」を進ませてあげているだろうか。

 

 

「へー、なんでそう思うの?」

 

「その結果どうなりそう?」

 

「仮にそうしなかったら?」

 

「急ぐ?あとでもいい?」

 

「ママならこう言うけどな」

 

「きっと聞いた人はこう思うんじゃない?」

 

「反対の意見もありそうよね」

 

「そうとも言えないかもよ?」

 

「あー、それは予想外のアイデアだね」

 

「いつからそう思ってた?」

 

「なんで理由を知りたがるの?」

 

 

 

 

 

子供の思考を掘り起こす言語化

 

「生きた言語教材」として存在している親の責務てある。

 

 

子供が「嫌だ」と言うからには、

 

その手前に子供の「感覚」「感情」「理由」が必ずある。

 

 

しかし子供はそれを完璧に言語化できていない。

 

 

 

その「手前」をどう言語化してあげるか。

 

 

 

「ん?嫌なんだ」

 

 

「うん」

 

 

「すごく嫌?少し嫌?」

 

 

「んー、少し嫌」

 

 

「ほー。何が少し嫌なの?」

 

 

 

 

こうやって、まず言語化に寄り添うことで

 

気持ちが寄り添っていることを分からせる。

 

 

 

教材の役割は、「強制」「遮断」ではない。

 

 

並走による刷り込みなんだ。

 

 

 

親のコミュ力

 

 

 

 

これがいかに大切か

 

 

 

 

もう、これは2時間かけてでも喋り尽くしたい内容なのだが

 

 

 

今日は可燃ゴミの日だし、その後ジムに行って歩数稼いで、

 

そこから西口校の準備に行かないといけないから

 

 

 

2500文字くらいで止めておこう。

 

 

 

 

今日はこの「親のコミュ力」について、頭の中に留めおいてふとした時に思い出してほしい。

 

 

そして、誰かと話す時に「その言語化の手前にあるその人の思考は何か」ということを想像してもらいたいんだ。

 

 

大人になっても、コミュ力はどんどん伸ばせるからね。

 

 

ではでは。