これはもう、何千年も何万年も人間が思い続けて、やり続けてきたことなんだろうね。
自分の子供
大切に決まってる。
健やかに成長してもらいたいし
幸せになってもらいたい
強くなってもらいたい
勝ってほしい
笑ってほしい
周りに必要とされてほしい
役立つ人になってほしい
親の考えることはみんな同じ。
同じなんだよね
それなのに、その思いや考えが行動として現れるとき
なぜか全部違う
大きく違う
微妙に違う
ちょっと違う
全く違う
不思議だと思わない?
僕ら夫婦がいつも言う、
「間違う親は2択ですら必ず間違う」
これね、ほんとこれよ。
声かけという行動ですら間違う。
ほんと不思議なんだけど
そこをよーく観察していると
その根っこの部分が見えてくる。
間違う親はなぜ間違うのか
あのね
その行動の源泉に「親の願い」が色濃く出ててね
そこに子供を合わせようとしすぎ。
根本はこれだと思うんだ。
子供を見てないのよ
よくよく見てないの。
子供の目を見てないし
子供の目の先を見てない
見てるのは親の欲を素直に受け入れる理想の我が子
その「今はそこにいもしない理想の我が子」ばかり見てる。
習い事なんて、その最たるもんだよね。
子供の「今」の時間は有限なのに
それを親の欲ベースの「型」にはめようとする。
そこに生じる子供の能力と気持ちとの「ズレ」にすら気づかない。
それだけ「親の欲」に強く支配されすぎ。
いや、これはね
多分ほぼ全ての親に当てはまると思うよ。
もちろん僕ら夫婦だって、常にこのことは言語化し、話し合ってきた。
その都度、その都度。
感情的にもなるし。
親は常に子供を見て、しっかりと考えるべきだ。
我が子は大谷翔平になれるのか
ということを。