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【まるで放物線】人は加速し、停滞し、落下する

 

生まれ、立ち、歩き、走り。

 

そうやって人はものすごい角度で成長していく。

 

若い時は加速感も感じるだろう。

 

ぐんぐん

 

いろんなものに興味を持ち、行動する。

 

友情も恋愛も結婚も出産も

 

この加速感がなければできないことだ。

 

そしてある時、ふとその加速感が弱くなっていることに気づく。

 

それは内発的である時もあるだろうし

 

外的な何かをきっかけにする時もあるだろう。

 

このままでいいのかな

 

とか

 

ちょっとそれは違うな

 

とか

 

そういう「ふと立ち止まらないと見えないもの」に気づく。

 

いや

 

気づいてしまう。

 

僕はこれを放物線の頂点のようなイメージと捉えていて

 

何度も何度もブログの中で書いてきたと思う。

 

塾講師として、達観したくない

 

と。

 

所詮、勉強なんて

 

とか

 

所詮、他人の子なんて

 

みたいな達観した感覚。

 

周りにはそういう先生もたくさんいたが

 

僕はいつまでも青臭くいたいと思っていた。

 

そして、今もそう思っている。

 

まだまだ自分の中に「加速感」があるからね。

 

ただ、保護者の方からすると「違和感」を持つ人もいるだろうね。

 

年齢的に「達観」の時期に入る人も少なからずいるだろうから。

 

でもね

 

僕は思う

 

これは「意図的に抗うべきだ」と。

 

 

たまに、子供達の同級生のお父さんお母さんと道でばったり会う時がある。

 

すると大抵の場合、同じことを感じるんだ。

 

「ああ、老けたな」と。

 

 

容姿とか服装とかじゃない。

 

何か感じる空気感が「老けた」んだ。

 

 

ここまで書いてきたこととばっちり付合する。

 

 

加速感がなくなり、停滞し

 

 

中には・・・

 

あまり書きたくはないが

 

「落下」が始まってる人たち。

 

 

もちろん人間だから、いずれ必ず絶対に「落下」はあるし、

 

そして地面に落ちる終着地点がある。

 

 

でもね

 

人間は物理現象通りに動いているわけじゃない。

 

 

意志がある

 

 

じゃないか。

 

 

達観するのはいいだろう。

 

何かに疑問を持つのもいい。

 

 

しかし

 

それが「停滞」であってはならないと思うんだ。

 

少なくとも僕自身はそう思って生きてるから。

 

 

 

加速感の真っ只中にいた時

 

あなたは日々をどう過ごしていたか。

 

 

でも、そんなことを言われても、歳も歳だし・・・・・

 

 

と思う人たち。

 

 

僕らは親だ。

 

 

親の特権があるじゃないか。

 

 

 

子供を通して、2回目の青春を擬似体験

 

成長や加速感を擬似体験できるじゃないか!

 

 

 

今、加速感の只中にいる我が子

 

よくよく見て、観察し、触れ合う。

 

言葉を交わす。

 

 

そうやって、我が子の加速に追従する

 

 

その感覚って、とても大事なんじゃないかな。

 

 

僕はよく「50歳にはとても見えない」と言われる。

 

 

それはおそらく、塾の生徒たちを通してその加速感を得続けているからなんじゃないか。

 

 

 

そう思う。