かつて、教員は聖職であった。
それがいつの頃からか、保護者の顔色を窺わなければならなくなった。
松江塾はこうしてブログで結界を張っているので、
滅多にその手の保護者は入ってこなくなったが。
その手の保護者?
それは、社会の論理、効率性、法令遵守
そういうものを前面に押し出して、「我、正論を語るなり!」と言ってくる親だ。
教育というものをまるで理解していないアホっぷりに呆れるが
それはそうやって生きてきた世代なのだと諦めて
辞めてもらうか、フル無視すると決めている。
教育現場は、子供たちが非効率を体感し、学ぶ場所である。
そして失敗をする場である。
それを「こうすれば効率がいい」とか「仕組みをこうすればスムーズに」とか
そういう提案そのものが子供を小さく、弱くすることに想像が及ばないんだ。
教育の原点は出産だ。
子供の命の根源を思い出して。
極めて生々しい、命のやり取りの現場であろう。
そこには効率とか、そういうものは立ち入れない世界なんだよ。
まさに
聖職
昔の人はそれをちゃんと分かってた。
だからあの時代、日本は輝いていたんだと思う。
日本には、聖職者が必要だ。
その聖職者たちが親の前に立ちはだかり
「黙れ、何も分からん若造が。お前の子供は大丈だから、黙って預けてあとは後ろの方から見てろ。」
って言って欲しい。
言えないのなら、僕が言う。