「教える」とは何か。
辞書にはこう書いてある。
まあ、想像通りの言語化だろう。
目の前にまだその知識を知らない生徒、生徒達がいて、
自分に与えられた時間とアイテムを駆使して、その知識を生徒達に伝え、分からせ、できるように導いていく。
そうだな
イメージは
真っ白な半紙に筆でどう塗りつぶしていくか
みたいな感じだろうか。
最初は目の前に真っ白な半紙。
筆を取り、筆に墨汁をつけて、塗りつぶしていくイメージ。
これを
こんな感じで塗り始めちゃうと、結局スカスカな状態の理解で終わる。
先生の教え方によっては、
こんなふうに違いが出る。
この違いこそ、「教え方が上手い」「やたらとスムーズに理解できる」「なんかよく分からない」「何言ってるのか意味不明」
なんていう、先生への評価の違いを生むのだろう。
さて
ここまで書いてきて、「何を当たり前のことを言ってるんだ?」と思うかもしれない。
うん
確かに当たり前のことを書いた。
ここからが本番。
ここまで書いたのは、全て「塗り手」側からの話だね。
塗られる生徒側、つまり「半紙」のほうは微動だにしていない。
ただそこにいるだけ。
教え手として道が分かれるのはここからだよ。
講師として
教師として
「教え方」「どう教えるか」
ということに意識を向けるのはもちろん大事。
隙間なくピッチリなっていくのは絶対にスキルと練習が必要だからね。
でもね
それじゃだめなんだ。
僕が思うに、
「半紙は塗られる存在なんじゃなくて、自ら塗られに主体的に動く存在なんだ」
ということを伝え、本当に「塗られる」行動をとれるようにすること
これがまず大事。
ちっとも主体的に塗られに来ない半紙に向かって
必死に塗り塗りしている教師講師の、なんと多いことか…
習字は筆を持った者が、目の前の「動かない」半紙に向かって筆を動かすものだと思い込んではいないだろうか。
そうじゃない。
「教える」
とは、
教える者
教えられる者
これが一体となってリズムよくお互いに動くこと
これが必要なんだ。
今回、僕の納豆英文法動画を見た人なら分かるだろう。
あの「1本目」の動画でそのための意識付けがなされ、
その後の授業中に全てで行われる「雑談」
あれが「双方の動き」のリズム合わせになっている。
そこで双方の動きの下準備が行われたところで
一気に授業に入る。
双方が
塗りに行き
塗られに来る
だから、内容は削りに削ったシンプルなものでいいんだ。
自ら塗られに来ているんだから、その吸収も2倍3倍4倍
これが理想的な「教える」ということなのではないだろうか。
つまり、最も大事なことは?
教えるということに悩んでいる教師講師
「その単元」とか、「その問題」とかの
前段階が全て
ってことだよね。
かなり上から目線で申し訳ないが
これでも30年近くこの仕事に全振りしてきた身なので
言い切らせてもらった。
以上。