立教大学の中原教授という方のXでのポストを引用する。
以下
公立の小学校・中学校における我が子への英語教育を見てきた私見です。
過去の世代と比べて、少なくとも、都市部では、英語ができる子(ハイエンド層)は増えている印象がある。これは、かつての世代と比べて、素晴らしい。かつてなら信じられない英検X級とか、TOFELXXX点なんて、ざらだ。ただ、それは上澄み10%の話だ。
一方、英語が早期に大嫌いになる子(マス層)も増えている印象がある。これが全体の60%であると直感する。
しかし、これは無理もない。
親の僕からみて、この傾向は、本当にやむをえないと思う。
かつてなら中学で習ったものが小学校で習熟されるものとされている。しかも、「親しむ英語」の名の下に、ちゃんと「単語」「文章の成り立ち」が教えられていない教室もある。
子どもたちは英語が嫌いなのではない。
最初から「英語が嫌いな子」はいない。
英語が「マジでわからない」のである。
突然提示される「英語がマジで意味不明」だから、嫌いになるのである。
ここに、さらに教員の人手不足が拍車をかける。英語を教える体制がととのっていない。先生の質にもムラがありまくる。
英語は臨時の先生が教えている場合も少なくない。その場合、ひとに依存する。ちゃんとしている先生は素晴らしい。そうでない先生との格差があることは容易に想像がつく。
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一方、小学校段階での「親しむ英語」から、中学校からの依然とした「受験英語=英作文重視・長文重視英語」への段差が激しく「連続したカリキュラム」にまったくなっていない。
小学英語と中学英語を「連続したカリキュラム」にするのは「現場の努力」だというする向きもある。しかし、それは「不可能」である。小学英語と中学英語を「連続したカリキュラム」にするのは国の責任だろう。でも、現在は「ぶつ切り」だ。なんなら、小学校英語の方が一見、難しい内容を扱っている。意味不明である。
「can」がわからないのに、小学校では、それを唱えさせている。小学校の英語は「唱える」に近い。
一方、極端な事例をいえば、中学校では、アルファベットと大文字・小文字からはじまる。この「倒錯」は現場では補正できない。
先を見通せば、さらに見通しは暗い。
高校入試・大学入試に関して「リスニングスピーキング重視・英作文重視・長文重視英語」の難化傾向が激しい。つまり、ハイエンド層の入試は、難化している。それは、ふつーの英語教育だけでは対応は不能と思える。少なくとも、30年前の、ど田舎に住んでいた、わたしには無理です。
結局、その「差分」を誰が、どのように埋めるか、という話になる。
「家庭教育で埋められる層(保護者が英語教育を子どもに提供する)」か「塾に通わせられる層(お金を投資する)」か、ないしは「両者を満たせる層」の3層にまずはわかれる。
そうでないとすると「放置層」の選択肢が1つ加わる。
つまりは4層。
結局、
「家庭教育で埋められる層」:「塾に通わせられる層(お金を投資する)」:「両者を満たせる層」:「放置層」
は、1割、2割、1割になる。放置層は6割だ。
さらにいう。
この4分類に、子どもが「都会に住んでいるか」と「地方に住んでいるか」の一軸加わる。そうすると「家庭教育も塾に通わせられる社会階層」は、都会に偏重するはずだ。だから、「できる層」は都会の一部の社会階層に偏る。
しかし、都会なんて、この国の全体を見れば一部である。都会は、まったく「マス層」ではない。
だから、放置の割合は爆増する。
国全体では、マスでみれば、英語ぎらいが増える。
だから、英語教育のねらいは、沈没する。
以上。
これらは、データに基づかないから検証が必要だ。まったく私見である。
しかし老研究者には、このような仮説が数秒で浮かぶ。ただ、おそらく「そう外していない」ないしは「検証の可能性があるのではないか」と想像するが、いかがだろうが。
少なくとも、筆者の周囲のリアリティは、これである。
嗚呼。
こんな仮説、実施する前から、想像できることじゃないのか。
不思議で、不思議でしょうがない。
嗚呼、情けない。
中原
以上
この「放置層」は松江塾にいないが、学校で多数派ということは生徒からの話でよく分かる。
得点分布図や平均点を見ても分かる。
そしてこれは、公教育に限ったことではない。
なぜなら中学受験をする子達の大半が小5小6は英語以外の科目に全振りし、英語は学校の授業に晒されるからだ。
そしてたっぷりと英語嫌いになった状態で中学に進む。
僕の知る限り、私立中学だろうが国立中学だろうが
英語教育に大差はない。
特殊なカリキュラムで特色を出そうとしているところもあるが
大学受験からの逆算、と考えると
実際は大して効果もないようにも思える。
さてさて
この先どうなっていくのか。
松江塾にできることはしっかりとやっていく。