読解
文字通り「読」んで理「解」するわけなのだが
考えれば考えるほど奥が深い。
さらに厄介なことに、それができていることを前提にして「その先」を考えて答えるように求められるのだから。
それが
読解問題
である。
さて
国語の読解を苦手にする子は多い。
ひらがなを学び、カタカナ、漢字と学びを進め
そしてそれが意味をなして繋がったものを前にする。
例えば
「外は秋の空気だった。」
という文を見てみよう。
外
は
秋
の
空気
だった。
正確な単語分けではないが、おおよそこんな感じに分けて子供には認識されるだろうか。
もちろん、漢字は読めるし、意味も分かる。
だがしかし、この文を「読解」できているかというと
おそらく多くの大人は「いや、無理だろう」と答える。
まずこの文、おそらく家の中にいた人物が外に出たところだと分かる。
外に出て、その肌に感じる空気の冷ややかさがもつ夏のそれではないことに気づいた瞬間の文だろうか。
この「空気の温度から季節を感じる」ということ。
経験を積んだ大人であれば当たり前のことだが、
子供にはこの経験を言語化した経験があるのか、ないのか。
おそらくは「今日暑いね」は経験済み。
しかし
夏の空気だね
秋の空気だね
という言語化は多くないのではないか。
国語というのは、算数のように学んだことだけが目の前の問題に出てくるわけではない。
これまで生きてきて、見たもの聞いたもの
また
そうでないものが、容赦なくその文に次々と出てくるのだ。
なぜ多くの子が読解問題を嫌うのか。
それはこうやって未知の知識が言葉になって現れるからである。
先の見えない洞窟に、頼りないろうそくを1本持って歩き入っていくようなものなのだ。
中にはそのろうそくが何本もある子もいる。
細い線香花火の子もいる。
そして中には、大型のサーチライトの子もいる。
その子にとっては、洞窟探検はめちゃくちゃ楽しいものなんだろう。
どうだろう。
国語の読解問題
奥の深さがイメージできただろうか。