勉強ができなくても生きていける。
これは間違いない。
日本国憲法でも、「勉強できないと・・・」なんてことは書いてない。
仕事ができなくても
いろんな能力が乏しくても
人はそれだけで命を奪われることはないのだ。
最低限度の生活は送れる
そう定めてもあるし、仕組みもあるのだから。
だがしかし
「最低でいいのか」
と思うはずだ。
より多く
より豊かに
過不足なく
充実し
得ることができる人生を
それには「対価としてそれを得るためのもの」が自分になければいけない。
中にはそれが生まれながらの容姿って人もいるだろう。
しかしどんなに恵まれた容姿を持っていても
テレビの中では明らかに「それ以外の要素」が必要だってことを教えてくれている。
さあ
話の前置きが随分と長くなった。
僕は毎日「勉強」を教えている。
その内容をすぐに理解してくれる子、なかなか理解が進まない子
意欲的な子、サボる子、粘る子、逃げる子
いろいろなケースを見ている。
そんな中で思うのだ。
少なくとも義務教育として学ぶ「勉強」というものを定められた学年と時間でどれだけの精度で吸収できるか。
その能力って、我が子が大人になり、いろんな場面でいろんな役割を担う際に
かなり関わってくる要素なのではないか、と。
授業していて感じる。
能力の差ではないことを。
意識を向ける力
聞く力
興味を持つ力
反応する力
そういうものを集合体として、理解に差があるということを。
分かるだろうか。
勉強ができなくても生きていける
この言葉
それは最後の最後、最終的に理解し、定着するところまでを含んでいるんだ。
聞いたことないかな
勉強をちっともやらないクラスのヤンキー
でも、妙に人を惹きつけ、会話に花が咲き、人望もある。
ただ、勉強の最後の最後、テスト勉強はしない。
だが話をするとその知識はあったりして。
「あいつ、ヤンキーだけど頭いいよ」
って言われてたあの子ね。
勉強=テストの点や学歴
そう思われがちだが、それだけがみんなの考える「成功」と一致しない理由
そこに大事なことがあると思う。
意識を向ける力
聞く力
興味を持つ力
反応する力
この力があれば、その力を教室で発揮できれば
それは「勉強ができる」に繋がるのは
当たり前なのだ。