いかに「能動的に頭を使うか」について考えている。
そして授業で実践している。
公教育でも私教育でも、ありとあらゆる単元で授業研究がなされ
どんどん丁寧で分かりやすい指導が行われ、改善されているだろう。
それはすごくいいこと。
僕も英語の授業、納豆英文法のコンセプトはそれだから。
でもさ、それが結果的に「お客様小学生」「やってもらうの当たり前小学生」を多く生み出してるようにも思うんだよね。
能動的に考えないってイメージ。
能動的に考えることすら、「こうやって能動的に考えるんですよー」って教えられてるような…
能動って、「渇望」「好奇心」からの「探究」じゃん?
どうしても欲しい!
とか
何だろあれ、知りたい!
とか
そういう気持ちが湧いてきて、より深く、より遠く、より細かく知識と格闘する探究
これが能動的に考えるってことだよね。
つまり「足りない」「そこにあるはずのものを削る」って授業。
今、小学生の授業ではすこーしずつ試してるんだよね。
「あえて削る」
ことで、「?」を生み出し、そこを生徒達が自分で埋めるような
そんな授業を。
もちろん、常に「目で聞く」ということを保たないと、そこに「?」は生まれない。
「A → B → C」
と提示すれば、子供達は「アルファベットか」と認識して終わり。
でも、
「A → → C」
と提示すれば自然と「あれ?Bか抜けてる。何で?」と思う。
だからその先の話を聞こうとする。「多分Bが入るんだよね?」と推測する。
でも最初から話を聞いてないと、
「 」
そこにあるのは「無」だ。
思考も好奇心も何も無い。
目で聞かないというのは、脳への情報の伝達が限りなくゼロに近づくことだから。
今は爆裂期間だ。
中学生達は各自で頑張る時間。
自分を自分で奮い立たせる時期。
だから小学生のことばかり考えている。
さて、今日は小1の授業日だ。
運動会が行われる地域が多いようで、出席者は多くないかもしれないね。