なぜ本文推測で生徒達の本文への没入が生まれるのか
実際に生徒達と一緒に取り組むことで見えてきた。
本文から取り出された設問
そこには本文をぼんやりと推測する情報はある。
しかし
当たり前だが圧倒的に情報が足りず、問題は解けない。
選択問題など、解けそうな雰囲気はあるものの
記述問題はおよそ雲を掴むようなレベル。
しかし
推測を進めるうちにうっすらとしか見えてこなかった本文内容が
徐々に輪郭をハッキリとさせ始める。
それでも問題は「カッチリ」解けない。
その欲求不満。
そこに本文が来る。
欲しかった「カッチリ」「クッキリ」がそこに。
それを読んだ時、あんなにモヤモヤとしか見えていなかったストーリーが
まるでブレることのない輪郭を持って紡がれる。
その時の「読んでカッチリ分かる」という感覚の心地よさ。
あって当たり前のものを一旦排除することにより、
一時的に「渇望」を生み出す。
その渇望に対し、一番欲しいものを与える。
そのピッタリ感
そのスッキリ感
ああ、そうか
これが「読む」という感覚なのか…
その感覚を一度知ってしまうと、もう目の前の文章を「カッチリ」読まずにはいられなくなる。
もう、あの「モヤモヤ」は嫌だから。
生徒達の国語文章題への取り組みが激変した理由は
そういうことなんじゃないかな。