遠足の朝
「皆さん!早朝から遅刻しないで集合できましたね!」
「晴天に恵まれて絶好の遠足日和ですね!」
「引率の先生達に迷惑をかけないように整列してくださいね!」
エンソクノアサ
「皆さん!ソーチョーからチコクしないでシューゴーできましたね!」
「セイテンにメグまれてゼッコーの遠足ビヨリですね!」
「インソツの先生達にメーワクをかけないようにセイレツしてくださいね!」
○○のアサ
「皆さん!ニャーチーからフヨセしないでギョーフーできましたね!」
「ナハヤチにヌモまれてシッユーの遠足ヨニハですね!」
「エトヒソの先生達にトーロシをかけないようにシヨチノしてくださいね!」
生徒達の語彙の差に着目して数週間
言葉の数が少ないということは、その子にとって理解できる言葉が少ないということ
言葉を知らないということは、その言葉が表す物や動きは、その子にとって「存在しない」のと同じではないか。
冒頭に書いた3つの文
相手から発せられる言葉は「音声」として耳に入ってくるだろう
しかし
「その言葉を知らない」
ということは、こんなにも辛いことなんだと
周りの大人達はもっとリアルに感じるべきではないか。
「エトヒソの先生達にトーロシをかけないようにシヨチノしてくださいね!」
そう言われても、言葉を知らなければ行動できない。
だからその子は怒られるんだよ
「シヨチノしなさいって言ったでしょ?どうしてシヨチノしないの?シヨチノしなさい!早く!」
って。
シヨチノって何?
という状態。
子供はね
誰から言葉を学ぶのか
学ぶって、「真似る」から来てる言葉だよね?